カテゴリ: 民俗・伝承・神仏

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国籍もバラバラなら(恵比寿=日本、大黒天・毘沙門天・弁財天=インド、寿老人・福禄寿・布袋=中国)ご利益もバラバラな方々をどういう基準でこういう組み合わせにしたのか不明ですが、寿老人と福禄寿が元は同じ神様だからとひとまとめにして、空いたとこに吉祥天を入れて紅二点にしてた時期もあったそうなんですね。

でも定着しなかったのは…

同じ団体に毘沙門天・吉祥天という夫婦が一組いると、ひとり者の弁天様がやきもちを焼くから「それはあかんやろ~」と、元に戻されたんだとか?

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「とんだとばっちりよね~」

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「恵比寿天」って、明らかに間違っとるやろ。
毘沙門天・弁財天はインドの神々そのままだから「天」が付くのは正しい。大黒天も日本風にアレンジされてるけど元はインド発祥だからこれも正しい。
でも恵比寿様は純然たる日本の神様。だから「天」を付けるのは間違い。
駅のポスターだからってこの間違いは恥ずかしいぞ。

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私、大学生の頃にタロット占いを少し(本当に少し)やってました。今じゃ完全にやり方も忘れたし、カードも部屋の中のどこに埋もれてるのやら…そもそも各カードの意味を覚えてなくて、いちいち付録のガイドブック見ながら解釈してたんだから。

さて、そんな私が一番好きなカードはこれなんですが…

「死神」…おもくそ不吉やん。

はい、確かに不吉なカードなんですが、わざわざひっくり返したことに意味があるんです。

そもそもタロットは全てのカードに「正位置」と「逆位置」で違った解釈があり、大抵の場合は吉凶が逆になります。「悪魔」と「塔」みたいにどっちでも不吉なものもありますが。
そんな中でこの「死神」、正位置なら確かに不吉ですが、逆だと「復活、再生」といった良い意味を持つ幸運のカードとなります(もっと詳しく知りたい方はwiki参照)。
今の私にはこれが必要なんだと思います…って、カードどこ行ったんや~っ!

 神仏に関する話もいろいろ書きたいと思いつつ、結局2年くらい中断してしまったなあ。
 ま、今回やっと復活と言っても、あんまり神話的な話は出ないはず・・・?

 さて、今回のお題は「阿修羅」。古代インドの戦闘神アスラの音訳で、ヒンドゥー教のインドラ=仏教の帝釈天と戦い続けているとされる。帝釈天が優勢の時は人間界も平和、阿修羅が優勢の時は戦乱が多いと言われ、また人間が生前の行いによって行くとされる六道(天・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄)の3番目である修羅道を支配すると言われる。ここは生前に戦いに明け暮れた人々が行くとされ、ここでも争いの絶えない世界であるという。但し、物語に取り上げられたのは「雨月物語」中の「仏法僧」で少し触れられるくらいなので、一般にその存在はあまり知られていないと思われる。

 今回はそんな話をしたいのではなく、ただ単にその姿をいろいろ見てほしいだけ。

 まず、皆さんが「阿修羅」と聞いて思い出すのはこれだろう。

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 超有名な興福寺の像。修学旅行やら、数年前の東京国立博物館での「阿修羅展」でご覧になった方も多いのではなかろうか。昔は夏目雅子、近年はユンソナに似てると言われた。

 で、こんな顔の像もある。

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 三十三間堂の像。興福寺のと比べたら怖い顔・・・でも、本来の戦闘神としての性格はこちらの方が良く出てるかも。

 で、漫画に登場するとこうなった。

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 原作・光瀬龍、絵・萩尾望都の「百億の昼と千億の夜」に出てきた阿修羅。世界の破滅をもくろむ惑星開発委員会と戦う戦士の1人として登場し、その凛とした美しさは、「少年チャンピオン」連載当時小学生だった私の心をときめかせたものだった。
 本作ではなぜか女性になっているが、これは光瀬さんがそう設定したからで、萩尾さんがまた見事にイメージ通りの絵を描いている。やはりモチーフになったのは、興福寺の像であろうか。



おまけ

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 荼吉尼天(だきにてん)・・・密教で説かれる天部神であり、日本ではなぜか稲荷神と習合し、狐に乗った女神として表現されるようになった。下の画像の通りである。

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 しかし、胎蔵界曼荼羅に描かれた本来の姿は全く違う。

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 よく見ないとわからないが、真ん中の神が人間の手足を持っているのに注目して頂きたい。これ、実はそれらを食べているのだ。しかも、装飾品として人間の頭部をつないだものを身に付けている。おまけに、この画像では省略されているが、3体の前には死体が転がっているという凄まじい有様。ついでに言うと、両側の2人が手にしている杯には、人間の血が入っているのだ。

 そう、実はこの荼吉尼天、人間の血をすすり、その心臓を食らう「鬼」だったのだ。

 その恐ろしい所業に対し、大日如来は大黒天を遣わし(自ら大黒天に変身したという説もある)、それを調伏、なんと仏法守護神にしてしまうのである。
 鬼から完全に足を洗い、普通の女神になった鬼子母神とは違い、荼吉尼天は調伏された後も人間の心臓を食べたくて仕方なかった。そこで、人の死を半年前から予知し、その人の死んだ後の心臓を食べることを許された・・・という具合である。

 これがキリスト教なら、間違いなく「悪魔」として忌み嫌われる存在になるところだが、こういう食人鬼ですら「守護神」にしてしまうあたりは、仏教の寛大さを示すエピソードと言うべきか。

 ただ、元はと言えばこの荼吉尼天(梵名は「ダーキニー」)、古くはインドの先住民族であったドラヴィダ人によって信仰された大地母神だったと言われている。それがアーリア人の侵攻によってバラモン教が普及するに伴い、先述のような食人鬼に変貌していったと考えられ、仏教によって「神」として復権したと考えることが出来る。

 そうは言っても、この荼吉尼天を祀る者は、死体置場で酒宴を繰り広げ、男性の行者と性行為をし、その快楽によって悟りを得るという、何とも奇怪な風習を持っていると言われる。
 古代ギリシアのディオニュソス信仰にも、これと似た部分があると思う。酒を飲んで狂騒し、生きた動物を八つ裂きにして神に捧げる・・・こういう血生臭い信仰が、遠く離れた東洋と西洋に共通して存在していたというのは興味深いところである。

 こういう、傍から見たら怪しいことこの上ない信仰を受け入れるか否定するかが、多神教と一神教の違いと言うべきだろうか。
 しかし、なぜ日本で稲荷神と習合したのか、これはさっぱりわからない。本来は恐ろしい破壊神だった大黒天が大国主命と習合して福の神になったのと同じく、本来の姿では日本人には怖くて拝めなかったのかも知れないし、その辺は宗教学者に任せるとしようか。

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 鬼子母神・・・「訶梨帝母」(梵名「ハーリティ」の音訳)とも言い、安産・子育ての守護神だが、そこに至るまでには恐ろしい話がいろいろあった。

 ハーリティは、元々普通の人間だったが、妊娠中に祭で浮かれて踊ったために流産、その咎で鬼女に転生したという。ただ、ある聖者にマンゴーを500個寄進したことにより、鬼になっても多くの子宝に恵まれたらしい。その数は、500人~10000人まで諸説あるが、魚じゃあるまいし、どうやってそんなに多くの子供を産んだのやら・・・

 で、多くの子供を持ちながらも、他人の子供をさらって食べていた。人々はそれに恐怖し、お釈迦様に助けを求めた。するとお釈迦様は、あろうことかハーリティが最も可愛がっていた末の子をさらって隠してしまったのである。いくら悪行をやめさせるためとは言え、仏様のやることかね?
 自分の可愛がっていた子供がいなくなったことにハーリティは嘆き悲しみ、あちこち探し回った末にお釈迦様のところへたどり着く。そこでお釈迦様が言ったのは、次のような言葉だった。

「お前には子供がたくさんいるのだから、一人ぐらいいなくなっても構わないだろう?」

 悟りを開いた聖者にあるまじき言葉だなあ・・・
 しかし、ハーリティは泣きながら「私の大事な子供です。返して下さい」と嘆願する。
 そこでお釈迦様は、

「どうだ、子供を失った親の気持ちがわかったか」

 と言って彼女に子供を返す。以来、ハーリティは仏教に帰依し、子供の守護神になったという。

 ハーリティ転じて鬼子母神は、その手にザクロの実を持っている。これは、鬼だった頃の記憶が戻って人肉を食べたくなった時のために、

人肉と味の似たザクロを食べることを許された

 と言われているが、どうやらこれは後付けのようである。
 昔からザクロは多くの実を持つことから「多産のシンボル」とされており、「子宝に恵まれるように」ということで鬼子母神の持ち物になったというのが本当の話のようである。

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 今日は皆既日食ってことで、世間は大騒ぎなんだけど、私は仕事してたからそんなもん観ることは出来なかったよ。

 さて、昔から日食・月食には各地にいろんな言い伝えがあって・・・

まず日本では、アマテラスの岩戸隠れの話が日食のことを言ったものだとされている。

 太陽神であるアマテラスが、弟スサノオの横暴ぶりに腹を立てて天の岩戸に隠れてしまったため、世界は真っ暗になってしまった。それでは困ると、岩戸の前でアメノウズメという女神がストリップをして、神々が騒いでるのをアマテラスが「何の騒ぎ?」と外の様子を覗き見たところを、アメノタヂカラオノミコトという大力の神が岩戸をこじ開け、アマテラスを外に連れ出すことに成功・・・という話。

 この話には不思議なところがあって、女神であるアマテラスが、大力の神でなければ開けられない岩戸をどうやって開け閉め出来たのか、そして女神を引っ張り出すために女神がストリップ?
 これは元々、アマテラスが男神であったからだと言われており、「古事記」「日本書紀」の編者が朝廷の都合で女神にすり替えたという説が有力になっている。そして、元来の「アマテラス」は、私の住んでる市内にある石切神社の祭神・ニギハヤヒであるというのは、以前のブログで書いた話。

ヒンドゥー教神話でも、面白い話がある。

 ラーフという魔神は、神々のもとに潜入し、彼らの持つ不老不死の妙薬をこっそり飲もうとするが、太陽の神と月の神によってその企みを知られてしまい、ヴィシュヌ神によって首をはねられる。ところがラーフは既に妙薬を口にしていたため、頭と体が別々になっても不死身となり、頭の方は太陽・月の神々に復讐するため、時折それらを飲み込むことで日食・月食を起こし、体の方も頭と合体しようと天空をさまようことになった。これが彗星であると言われている。

 この話は仏教にも取り入れられ、頭の方はラーフの名前を音訳した「羅睺(らごう)」と呼ばれ、体の方は「計都(けいと)」と呼ばれることとなった。

 まだ地動説など誰も考えてなかった頃で、日食・月食が太陽・月・地球が一直線に並ぶことで起きる現象だなどとは思いもよらなかったから、太陽や月が欠けるのは未知の暗黒星の仕業だと考えられていたのだ。

 ・・・太陽神であるアマテラスが岩戸に隠れた話やら、邪悪な神の仕業だという話やら、とにかく日食・月食には良いイメージがない。実際、これらは不吉な出来事の前兆であると言われることが多かったようだ。そりゃあ、生命の源であると言われる天体が急に欠けたり、得体の知れない星が出現したら、そう思うのも仕方ないだろう。
 ここ数日のお祭り騒ぎだけ見てたら、もう誰もそんなこと考えてないだろうが・・・

 千手観音・・・十一面観音の発展形で、顔が11ある上に、1000本の腕を備え、より多くの衆生(生命あるもの)を救うという菩薩である。
 顔の数は27の場合もあるが、ほとんどの作例では11である。で、肝心な腕の数だが・・・

ほとんどの像が42本なのだ。

 下の写真をご覧頂きたい。

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 京都の三十三間堂の御本尊であるが、大きくて威風堂々としてるから、腕の数も多く見えるのだが、実際には42本なのである。

 「千手」なのに、なぜ42本・・・?

 これには理由があって・・・

1本の腕で25の世界の衆生を救う。つまり、1本で25本分の働きをする。

 ということだ。それで1000÷25=40となり、中央の合掌している腕を合わせて42本というわけ。

 それぞれの腕の手のひらには1つずつ目があって、またそれぞれ持ち物を手にしている。これは経典にも書かれていることなのだが、どうも私は単純に受け入れることが出来ない。

 ここに、もう1体の千手観音を紹介する。

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 奈良の唐招提寺金堂の像だが、小さな腕が無数にあるのがおわかりだろうか?そう、この像の腕の数は・・・

953本!

 中途半端だが、恐らく最初はちゃんと1000本あったと思われる。それが、時の流れとともに47本欠落したのではないか。
 他にももっと凄いのがあって、大阪の葛井寺(「藤井寺」は地名で、寺名はこの字)の像の腕の数は・・・

1042本!

 いくら何でも多過ぎるように思う。経典に書かれている42本に、更に1000本追加した勘定になる。

 他にも、探せば実際に1000本の腕を持った千手観音像はあるらしいが、有名なところでは以上の2体くらいである。

 私が思うに、元は1000本というのが本来の数だった。だが、仏師が制作するに当たって、本当に1000本作るのは手間がかかり過ぎる。そこで経典を都合良く書き替えたのではなかろうか?

 しかし、唐招提寺の像は大きな腕の間から小さな腕が無数に出てるし、葛井寺の像も同じだ。どちらの像も、ある程度42本の像が定着してから、「どうせ大きな像を作るのなら、本当に1000本作った方が御利益もあるだろう」と考えてそうしたのではないかと思う。42本像が定着する前に作られたのなら、どの腕も均等な大きさのはずだが、違いがあるというのはその線が濃厚だ。特に葛井寺の像は、42+1000と考えれば納得がいく。

 私が思うに、三十三間堂はあれだけ等身大の千手観音(全部腕は42本)を並べてるのだから、御本尊は本当に1000本の腕を作っても良かったのでは?あれだけ大きな像だし、あの大群の中央に鎮座されてるのだから、周りより更に強力な御利益が期待出来ると思ったのだが、やっぱりその辺は仏師の都合だったのかね・・・

 七福神の名前を挙げてみろと言われたら、誰もがすぐに名前の出てくるのは「大黒天」「恵比寿」であろう。その片方である大黒天、一般的にはこんな姿を想像すると思う。

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 「福の神」にふさわしい、にこやかな姿である。旧家であれば、床の間の置物になっていることも多いだろう。私の実家もそうである。

 が、福岡県の観世音寺の宝物館には、こんな姿の大黒天像があるのだ。

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 持ち物は一般的な大黒天と変わらないが、注目すべきはその顔の表情。何だか厳しい顔をしており、ちょっと近寄りがたい雰囲気がある。

 しかし、それで驚いてはいけない。下の画像を見て頂きたい。

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 何とも恐ろしい姿だが、実はこれが本来の大黒天なのだ。

 観世音寺の像は、平安時代に制作されたもので、つまりアップした画像を逆に見て頂ければ、その姿の変遷がよくわかる。最初は恐ろしい姿だったのがだんだん優しく変化していったのである。

 本来、大黒天はヒンドゥー教のシヴァ神の化身で、死神・破壊神という位置づけだった。元は人の心臓を食べる魔神だった荼吉尼天を調伏、仏法守護神とする働きをしたのだが、反面、福神としての一面もあり、日本に伝わってからは大国主命と習合され(名前の読みが同じだから)、次第にその姿も変化し、観世音寺の像のような姿の時期を経て、現在の姿になったようである。

 ヒンドゥー教の神々が仏教に取り入れられて「守護神」となるにあたり、本来の姿と大きく変わった方々が多いが、これほどの変貌を遂げた例も珍しい。やはり本来の姿では、怖くて拝みにくかったということだろうか。

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 観音様・・・正式名称は、「観世音菩薩」。慈悲の心で、全ての生命あるものを救うと言われ、昔から多くの人の信仰を集めている。

 さて、昔から気になってるのが、その「性別」。

 いろんな寺の観音像の造形は女性的だし、私の母親や祖母も「観音様は女だ」と言ってたので(父親は全く興味なし)、そうだと信じ込んでいた。

 だが、本来は・・・「男性」らしい。

 これにはいろんな論拠があって・・・
・その名前が、サンスクリット語では男性名詞であるから。
・経典の中で、釈迦如来が観音様に「善男子」と呼び掛けている。
・菩薩とは、如来になるために修行中の身であり、如来は全て男性だし、女性は仏(如来)になれないから、必然的に男性である。
・菩薩像の姿は、釈迦如来が王子だった頃の姿をモデルにしているから。
 等が挙げられ、また各種変化観音の中で、怒りの表情を見せる「馬頭観音」はとても女性的ではないし、そう考えたら「男性」なのかなあと思えたりする。

 これが「天部」なら、元がヒンドゥー教の神々だから性別ははっきりしてるし、弁才天・吉祥天・鬼子母神等はれっきとした「女神」だからわかりやすいのだが・・・
 
 折衷案で、「如来・菩薩・明王は性を超越した存在である」として、「どちらでもない」という説もある。
 仏像の特徴の一つとして、「生殖器は体の中に隠されて、外からは見えない」というのがあり、誰がそんなもん確認したんだかわからないが、それも性別をあやふやなものにしていると言える。

 しかし、「女性」という説にもちゃんと論拠はある。
・その成り立ちに、ヒンドゥー教のシヴァ神妃であるパールバティの影響が見られる。
・変化観音の内、准胝観音は「仏母」と呼ばれることもあり、女性であっても不思議はない。
 それに、菩薩の中でも「般若菩薩」は経典にはっきり「女性」と書かれてるし、金剛界曼荼羅の五智如来を取り巻く菩薩たちは「女性」とされている。
 また、明王の中でも、「孔雀明王」は「孔雀仏母」とも呼ばれ、女性であるという説が有力である。これは元々、インドから伝わった経典を中国語に訳す際に「明王」になったからで、本来は明王ではなかったかららしい。

 やや話がずれたが、時代が下るにつれて作られた「楊柳観音」「白衣観音」等は女性的だし、元々は男性だった観音様が、次第にその御利益の性格から、女性として祀られるようになったと考えるのが自然ではなかろうか。
 日本では、法隆寺の救世観音は聖徳太子をモデルに作られたと言われ、この頃には「男性」であったのだろうが、法華寺の十一面観音(写真の像)のモデルは光明皇后だと言われ(但しこの像が作られたのは平安初期)、この頃には、観音様は「女性」として祀られるのが一般的になったのではないかと思う。

 観音様は、信仰する相手によってその姿を変え、それが男性だったり女性だったりするとも言われ、だとすれば「女性」になっても不思議はない。
 キリスト教でマリア像を拝むのと同じことが、観音様を拝むのにも言えると思う。そう考えれば、隠れキリシタンが「マリア観音」を拝んでたのも自然の成り行きと言えよう。マリア=観音様、子供時代のキリスト=お地蔵様という、奇妙な符合も見られることだし。

 他の菩薩についても、「男性」とは言い切れない方々が多かったりする。

 まず、どう考えても男性なのは・・・
・地蔵菩薩:あの姿を「女性」とするのは無理がある。あ、瀬戸内寂聴がいるか・・・
・虚空蔵菩薩:元来、地蔵菩薩とセットで考えられた菩薩であり、そうなれば自動的に「男性」だろうと思う。
・弥勒菩薩:釈迦入滅56億7千万年後に如来となることが決まっており、となれば「男性」でしかないと思う。
・文殊菩薩:釈迦入滅後に活躍したと言われる知恵者であり、「男性」と考えるのが自然。
 女性かな~と思うのは・・・
・普賢菩薩:女人往生を説き、その姿も女性的。取り巻きも女神ばかりだし。
・勢至菩薩:観音菩薩と一緒に阿弥陀如来の脇侍であり、観音様が女性とすればこの方もそうだろう。造形も女性的だし。
・日光・月光菩薩:薬師如来の脇侍だが、その姿は女性的。
 これは私が考えた強引な説だが、ある程度は納得して頂けるのではないか。しかし、文殊・普賢は男女で釈迦如来の脇侍をしてるのか?という疑問も出てくるが、一緒に考えられた日光・月光や、観音様の後に考えられたであろう勢至菩薩と違って、それぞれ別々に成立した菩薩を強引にセットにしたと思われるので、それはそれで仕方ないかなと。

 本来が男性であるとするのは、今となってはそんなに意味があるとは思えない。長年にわたって、その「慈悲の心」が「母性」として信仰されていることを考えたら、観音様=女性というのが定着しているのではないかと思う。
 日本でも、本来男性神であった「アマテラス」(元はニギハヤヒの別名だった)が朝廷のご都合で女神になったという事実もあるのだから、観音様の性別が本来のものと変わったからと言って、文句を言うこともないと思う。
 私には信心というものはないが、信仰する者が「女性」として信仰していれば観音様は「女性」なのだ。そう考えれば良いのではないかと思う。

 余談だが、昔、堺正章や夏目雅子の「西遊記」で観音様を男の俳優が演じていたのには強烈な違和感があった。ついでに、お釈迦様は逆に女性だったし・・・やはりお釈迦様は男性、観音様は女性が演じるべきだったと思う。

 6月と言えば、「ジューン・ブライド」とか言って、結婚する人が多いのよね。私にはまだ縁がないけどさ・・・

 何でこんな暑くて天気の悪い季節に?

 って、天気の悪いのは日本だけなんだけど・・・

 6月は「June」、これはローマ神話の女神「ジュノー」から命名されたもので、ジュノーは結婚の守護神だから、その御利益にあやかろうとこの月に結婚する人が多い、というわけ。
 まあ、簡単に言えばそういうことなんだけど、もう少し余計なことを書いてみよう。
 「ジュノー」は、ギリシア神話の「ヘラ」と同一視されている。ヘラとはゼウスの正妻で、嫉妬深くて、浮気者のゼウスが愛した女神や人間の女に厳罰を与えることで有名。

 さて、一般にはギリシア神話がローマ帝国に流れ込んで、神々の名前が変わってローマ神話になったと考えられてるようだけど、実際には「ローマ神話」ってのはギリシア神話と別に存在し、たまたま神々の符合する点が多かったから混同されたものらしい。

 これは、ヒンドゥー教の神々が仏法守護神になったというパターンより、日本の「神仏習合」の方が近いのではなかろうか?元々の「怖い」大黒天が大国主命と習合して「優しい」大黒天になったように・・・

 って、なんのことやらわからんか。

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